動物と人間の大きな違いは脳にあると言われています。
我々人間はその脳を使って多くの原理や技術を開拓してきました。
しかし、その脳について本格的に研究が行われるようになったのは、今から75年前にさかのぼる人間の脳波の発見からです。
脳波は脳の機能的断面を非侵襲的にしかも経時的に捉えられる方法として医療の中で確固とした地位を占めてきました。
今日、医療技術の進歩の中で脳波の役割は少なくありませんでしたが、脳波に取って代わる技術は確立されてはいません。
ここでは、脳波と日本における脳波計の歴史を振り返って見ることにしましょう。
電気生理学を学ぶ際"ガルバニーのカエルの実験(1780年)"はあまりにも有名な話で、この実験によって生物電気現象の研究が盛んになり、電気の法則ができ、またこの実験をヒントに電池が発明され(1800年ボルタ)、今日の電子工学の発展に寄与しました。
ガルバニーは真鍮の鈎に引っ掛けたカエルの脚の先が、風にゆれて鉄柵の棒に触れると、脚がピクッと収縮することに注目し、生体内における電気作用を発見したわけです。
また、オランダの生理学者アイントーベン(1902年)によって考案された弦電流計は微弱な生物電気現象を目に見えるようにした点で大きな発見といえます。
脳波の発見は1875年にイギリスのケイトンがネコ、サル、ウサギなどの動物から脳の電気活動を報告したことから始まり、その後1924年にドイツの精神科医ハンス・ベルガーが人間の脳での電気現象を記録しその後1929年に“人間の脳電図について”という論文を発表したことに始まります。
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人間の脳波の発見者
ハンス・ベルガー(1873-1941)
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ベルガーの使用したEdelmannの弦線電流計
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ハンス・ベルガーの記録した脳波
当初多くの研究者からは"ノイズ"ではないかといわれ懐疑的に見られていましたが、 1933年イギリスのエドリアンらの追試実験でその存在が証明され、ベルガーは人間の脳波の発見者として後世にその名を残すことになりました。
人間で脳波の存在を証明したエドリアンらは、ベルガーの業績をたたえ、脳波のことをベルガーリズムと呼びました。
日本人としてはじめて脳波の研究に携わったのはエドリアンらがベルガーの証明を行った時に留学していた山極(後に東京医科歯科大学教授)です(1935年)。
その後山極は脳波の起源に関する多くの業績をエドリアンらと報告しています。
日本では東北大学において最初に研究が始まり、東北大学工学部の松平(1935 年)によって脳波の増幅器が製作され使われていました。
そして伊藤、懸田、喜多村(1937年)の報告が日本で最初に行われています。
その後1943年までに北海道大学や東京大学でも研究用の脳波計を試作し研究が開始されました。
1930年から1935年の間に現在の脳波計の原型となる脳波計が海外の技術者によって開発されました。
ヨーロッパではドイツのトニー(1932年)、アメリカではグラス(1936年) です。後にこの2人はそれぞれ脳波計を販売する会社を起こし、ヨーロッパとアメリカで多くの業績を残しました。
トニーはまた、今日生体増幅器に必須の差動増幅器の考案にも寄与しています (1938年)。
当初の脳波計は真空管による抵抗容量結合の増幅器で、周囲の雑音に弱く安定した記録には苦労したようです。
しかしすでにインクを用いて紙に記録したというから驚きです。
その後、差動増幅器が用いられるようになり安定した記録が得られるようになりましたが、50マイクロボルトという非常に小さな脳波をどこでも安定して記録するには、もう少し電子工学技術の発展を待たねばなりませんでした。
1937年にはアメリカMGH(マサチューセッツ・ゼネラル・ホスピタル)において2素子の脳波計が設置され、これが世界で最初の臨床脳波検査室だと言われています。
日本では1936年に東北大学の松平が実験用の脳波計を製作しており、その後 1943年までに北海道大学、東京大学で製作されています。
臨床用の脳波計については、文部省の脳波研究班が1943年に組織され名古屋大学の勝沼、東北大学の本川らによっていろいろ討議され1950年の“脳波班インク記録装置に関する協議会”で定められた規格を基に東京大学生産技術研究所の糸川らにより試作されました。
この時期、臨床用の脳波計開発には東京大学生産技術研究所(糸川)、東京大学脳研 (島薗)、東京大学第一工学部(阪本)が独自に取り組んでいます。
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国産第1号脳波計"木製号"
1951年(昭和26年)には東京大学工学部阪本研究室の指導を受け三星電機(後に三栄測器と改名)が“木製号”を商品化しました。
この脳波計の開発に携わった当時三星電機の河田芳巳氏の自伝の中で、「組立てが全部終わりいよいよ調整に入った所、ハムが入って記録計は振り切れて全く動作しません。増幅度が高い為に今までの常識では通用しません。この種の機器の原因究明の原則に従って、一番末端部分より点検を始め、結局一番先端部分の部品の絶縁度を一桁良くする事で、原因解明という事になりました。部品を交換してこれで解決することが出来ました。ところが今度はノイズが入って脳波との区別がつきません。これは初段の真空管自身より発生しているのです。結局神田の電気部品街で10倍の真空管を借用して、この中から良品を選別する事になり、この状況が今後続くことになりました」と 開発当時の苦労話が紹介されています。
さらにこんなエピソードも残されています。
三星電機の脳波計が完成した今、その教授達(本川弘一(東北大学教授)・藤森聞一(後に北海道大学教授)*筆者加筆)による提案で、当時、東芝が試作し松沢病院で試用中の脳波計とロケット博士で有名な糸川教授の試作機の3台を、いわばコンクールとも言える、それぞれ実際に試用して性能チェックをすることになりました 。
この結果は三星電機に軍配が上がり、その後の三栄測器の事業に多いに貢献したそうです。
国産第1号とされている臨床用脳波計は1951年(昭和26年)に三星電機から発表されている“木製号”です。
日本大学文学部心理学教室に納入されました。
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国産第1号脳波計"木製号"
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1952年当時の脳波測定風景
昭和26年から29年にかけて国産の脳波計が改良され発売されました。
当初の脳波計はチャネル数も少なく、記録をするのに多くの時間を要し、非常に苦労して記録していた時代です。
初期の脳波計は初段増幅部の電源はバッテリーを使用し、交流障害の防止と基線の安定性を保っていました。
三栄測器と日本光電の初期の真空管式脳波計を次に示します。
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三栄測器 EG-125
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日本光電 ME-91D
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昭和28年ロックフェラー財団から名古屋大学に
寄贈されたGrass社8チャンネル脳波計
この時期、国産に満足しないいくつかの施設ではアメリカのグラス社の脳波計を輸入して使っていたという記録もあります。
また、1953年(昭和28年)にはアメリカのロックフェラー財団から東京大学脳外科と名古屋大学精神科にグラス社の8チャンネル脳波計が寄贈されています。
名古屋大学に寄贈された脳波計は現在、千葉県にある医科器械資料館に国産第1号の木製号と共に展示されています。
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真空管時代の脳波増幅器の回路図
(12AX7という双3極管が使われている)
昭和30年代は真空管が使われていました。
これは真空管時代後期の脳波計の増幅部の回路図です。
12AX7という双三極管が初段に用いられ温度変化や外部からの交流雑音の影響をなくしていました。
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初段に真空管を用いたトランジスタ式脳波増幅器の回路図
その後昭和30年後期にトランジスタが使われるようになりましたが、トランジスタは初段として必要な高入力インピーダンスが得られず、数年間は初段のみ真空管が使われていました。
真空管の時代の脳波計は測定中のドリフトも多く、電源を入れてから30分は基線が安定しませんでした。
今でも"検査1時間前には電源を入れておけ"と指導する先輩技師は当時の教育が身にしみているからなのです。
また、検査室には何本かの真空管がストックされており、ドリフトが大きくなったり雑音が多くなると、脳波計のアンプを引き出して、初段に使われている真空管を交換していました。
当時、筆者は信州のリハビリテーション研究所でこのタイプの脳波計を使用しており、メーカーの営業の人から中古の真空管を何本もいただいてストックしていたことを懐かしく記憶しています。
脳波計には“医療用”と特別に印刷された真空管が使われていたのを覚えていますが、次第にそのような真空管は手に入りにくくなり、最後のころは“通信級”と印刷されたもので代用した記憶があります。
日本における最初の脳波検査技師は東北大学で昭和27年に誕生しました。
その後、東北地方を中心に昭和36年北日本脳波検査技術者会として組織化され、 40年には全国組織化されました。
今日の検査技術向上の裏には、この会の献身的な努力を忘れることはできません。
しかし現在は、臨床検査技師法が成立し脳波検査技術者会の全国組織はなくなり、東北や関東といった一部地域でしか活動が行われていません。
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初段にFETを用いた脳波増幅器の回路図
昭和40年代になると真空管の代用となるFETや高性能なOPアンプが出回りこの時期からオールトランジスタ式の脳波計が開発されました。
真空管がなくなったことから、アンプも小さくなり小型化が進みました。
これはFETとOPアンプを用いたアンプの回路図である。
昭和30年後半から昭和50年前半までの10数年は安定したトランジスタ時代であり、三栄測器、日本光電の他にも脳波計を販売しようとする会社が現れました。
この時代は医療分野にエレクトロニクスが参入しはじめたいわゆるME産業の草創期で東芝、日立、シャープ、島津製作所が名乗りを上げました。
しかし、脳波計の市場は小さく大企業が参入するほどの規模でないことから次第に大手は撤退し、最終的には三栄測器と日本光電の2社になりました。
これはトランジスタ時代の代表的な脳波計です。
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三栄測器 EG130
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日本光電 ME130-R
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脳波計には数多くのロータリー・スイッチが
使われていた
この当時の脳波計の寿命はチャンネル数に応じて必要となる電極セレクタ、フィルタ、感度などを設定するロータリースイッチの寿命に依存していました。
また、故障の多くはこの部分の接触不良であり、製造過程においても一番人件費を要する部分でした。
昭和50年前半に半導体スイッチが登場してこの状況は一変しました。
半導体スイッチは接点摩耗が無く、しかも接点選択が電気的に行えること、そして全体を小型化できるという脳波計の常識を一気に変えました。
しかも、この時期からマイクロコンピュータが導入され脳波計にブラウン管を用いた表示装置が登場しました。
脳波計を納入するときには、その施設ごとの記録モンタージュを組み込まなければなりませんが、従来はパターン基板というものに細い電線を用いてハンダ付けして、モンタージュをつくるもので、時間と手間がかかり苦労したものです。
それが半導体スイッチとマイクロコンピュータの出現でこの作業がなくなりました。
マイクロコンピュータの出現により、画面を見ながら各種設定を行う必要が生じ、この時期から脳波計に液晶表示器やブラウン管が付くようになり、ロータリースイッチで設定していたことがこれらの表示器を見ながら電子的に行えるようになりました。
これにより、ツマミの連続という脳波計のイメージは無くなり、接点不良など言う言葉も次第に聞かなくなったのです。
この当時、日本の脳波計は性能の良さと価格の安さから世界中で使われ始め、特に日本光電は米国やヨーロッパで販売網を確立したこともあって世界市場の50%以上、特にアメリカでは70%以上の市場を持つまでになっていました。
三栄測器はNEC傘下となり日本電気三栄と社名を変えていましたが、米国ニコレー社とOEM契約を結び米国で販売され、まさに米国市場に日本製の脳波計がはびこっていた時代といえるのです。
これがアメリカ市場(世界市場)に出回っていた日本製の脳波計です。
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日本電気三栄 1A98
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日本光電 EEG4214
※ 日本光電製の脳波計はアメリカ市場で70%以上のシェアーを誇っていた。
平成時代になり脳波を電子的にファイリングする要求が出始めました。
これは病院における記録紙の保管スペースの問題、病院内の検査データネットワーク管理の必要性、さらにコンピュータを用いた判読の必要性などが主な理由です。
この当時、筆者は日本電気三栄で脳波の仕事をしており、デジタル脳波計の開発に携わっていました。
1987年(昭和62年)ころであると記憶しますが、クリーブランドクリニックのリューダース先生のところでデジタル脳波計が開発され、それを日本で販売できないかという話が飛び込んできました。
クリーブランドクリニックではてんかんの長時間モニタリングが行われており、膨大なデータを電子的に保存する必要性がありました。
早速、リューダース先生を訪問し開発に関係した何人かの技術者に会い話をしましたが、あまりにも現実離れした構想なのでとにかく日本の技術者で機械を見て検討することになりました。
しばらくして工場に機械が送られてきて、開発の技術者がいろいろ検討してくれました。
使われているコンピュータはHP(ヒューレット・パッカー)のUnixマシンでその扱いは現在のパソコンとは違いかなり難しかったです。
その装置を脳波の学会に参考展示してみたが、ほとんど興味を示されませんでした。
今考えると、当時パソコンは出回ったばかりそれもDOSの時代であり、まだまだ臨床の場でコンピュータを使うという時代では無かったのでした。
結局、この話は"日本の臨床の場で使いこなすのは困難"と判断し断念しました。
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日本市場では売れなかった
アメリカTECA社製のデジタル脳波計
1989年(平成元年)ころアメリカのTECAという会社からデジタル脳波計を開発しているので日本でも売らないかと誘いがありました。
これはその後日本でも開発されるデジタル脳波計と同じ考えで、コンピュータは表から見えず、操作性は脳波計と同じで、しかもサーマル紙ではあったが記録計が内蔵されていました。
もちろん電子ファイルされたデータはあとから再生する時にモンタージュを変えたり、フィルターや感度も自由に変えられるようになっていました。
工場の開発者は海外からの導入にあまり乗り気ではありませんでたが、当時三栄は国内において日本光電と熾烈なシェア争いを行っており、それを勝ち抜くためにも新しい考えのデジタル脳波計を早く日本に導入しなければならなかったのです。
装置が輸入され早速デモで大学病院に持ち込むことになりましたが、思いもよらぬ困難にぶつかりました。
それは大きすぎて検査室に入らないということであった。これは想像していなかったことであり、日本とアメリカのサイズの違いをあらためて実感しました。
結局、検査室のドアーを外して中に入れることになり、なんとか場所に納まりましたが、全ての施設で同じことでありとにかくデモには苦労しました。
結果的にはこの脳波計は日本で売れませんでした。
大きな理由は記録方式の問題でした。
この脳波計はインク書きでなくサーマル紙を使用する方式で、ランニングコストがかかりすぎました。
そして価格が1,000万円近かったことも影響しました。
さらに、この時期はユーザーがまだデジタル脳波計を要求していなかったのです。
時を同じくして国内ではMO(光磁気ディスク)などの電子媒体に電子ファイリングする脳波計の開発が進みいくつかの施設に導入されました。
2つの方式があり、ひとつは従来の脳波計にファイリング装置を外付けで追加する方式のもの、もうひとつは脳波計にファイリング機能をつけた方式のものです。
この時代のファイリング脳波計は電子ファイリングが目的で現在のような後からモンタージュの変更(リモンタージュ)できる電極単位のファイリング(リファレンス誘導)は行われていませんでした。
これは日本ではあくまでも紙の記録が重要視され、電子ファイリングされたデータをコンピュータで読むという要求がなかったからなのです。
つまり、記録紙と同じデータが保存されていることが重要であった時代です。
日本光電は脳波計と一体型を開発し、日本電気三栄は脳波計と組み合わせる形のファイリング装置を開発していました。
この当時のファイリング脳波計は次にあげる機種です。
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日本光電
EEG3100
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日本電気三栄
EE1000+EF1500
国内で本格的なデジタル脳波計を開発し販売を始めたのは日本光電で平成5年のことです。
従来のファイリング脳波計は紙記録が主体でデータの保存は紙記録した状態と同じものが電子媒体に保存されていましたが、この時期からリモンタージュができるリファレンス誘導という方式で脳波が収録されるようになり、後からモンタージュを自由に変えて再生できるようになりました。
平成7年ごろからは本格的なデジタル脳波計が日本電気三栄と日本光電で開発されましたが、日本ではあくまでも紙への記録にこだわるユーザーが多く、欧米ではデジタル脳波計の特長を生かした判読とペーパーレス化が日常的であるのに対して、高性能なデジタル脳波計を持ちながらその機能が有効に使われていない現状が今でも続いています。
この当時のデジタル脳波計は次の機種です。
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日本光電
EEG1500
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NECメディカル
EE5800
さらに海外ではすでにペーパーレス時代が到来しており、脳波計はパソコンに生体アンプを組み合わせた極めて簡単な形になり、ソフトウエアーを得意とする多くの会社が参入し、日本製の脳波計は海外から姿を消しつつありました。
国内においても、兼松メディカルがバイオロジック社、ミユキ技研がニコレーバイオメディカル社と海外のペーパーレス脳波計を発売しましたが、紙記録という日本市場の特殊性から販売台数は伸び悩んでおり、平成14年にはバイオロジック社は日本市場から撤退しました。
また、時代の流れの中で国産1号の脳波計を開発した三栄測器は日本電気三栄、NECメディカルシステムズと名前を変え、そして1999年(平成11年)NECとGEメディカルシステム社の合弁会社である、日本GEマルケットメディカルシステム社に吸収され51 年間の脳波計の歴史に幕をひきました。
最近のペーパーレス型デジタル脳波計を次に示します。
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日本光電
EEG9100
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ニコレーバイオメディカル
アライアンワークス
脳機能をリアルタイムに評価する方法は脳波の他に脳磁図(MEG)、光トポグラフなどがありますが、脳波は簡便で安価であることから今後もてんかんの診断や睡眠脳波、高次脳機能研究には必要な装置であり続けると思われます。
脳波の精度を上げる方法のひとつに電極数を増やすことが考えられますが、電極の数が増えると装着に時間がかかり、被験者の負担も多くなります。
コンピュータが普及し、自動判読プログラムも開発されていますが、専門の医師を満足させるまでには至ってはいません。
脳波が必須の検査はてんかんの診断で、スパイクや発作波の記録です。
そして診断や治療方針の決定には長時間のモニタリングが必須です。
これには患者像を同時に記録する必要があり最近はデジタル画像を脳波と一緒に保存できるようになっています。
また、睡眠分野では“睡眠の質”を測る方法として脳波が必須であり、最近の睡眠ブームの中で脳波は重要な地位を占めています。
次世代の脳波を考える時大きな変革は考えられず、紙記録は無くなるにしても波形そのものを記録することは引き続き行われると思われます。
そして脳機能の診断方法は他の方法に取って代わられるかもしれませんが、脳波計は現在の形から大きく変わるとは考えにくいと感じます。
唯一変わる可能性のあるのは脳波計のサイズと電極です。
もっと簡単に装着できノイズに強い電極ができればもう少し利用範囲が広がると思われます。
脳波計は心電計と並んで今日のME産業とりわけ医用電子機器発展の草分けでもありました。
時代の移り変わりの中で、脳波計は脳機能検査の主役を画像検査機器へと譲り渡しましたが、脳の研究において脳波計がその中心的存在であった時代があり、世界の市場を日本製の脳波計が占めていた時代がありました。
主役を譲ったとはいえ、今後も脳波はてんかんや睡眠そして簡便な脳機能診断法として利用され続けていくと想われます。
本稿を書くに当たっては古き時代は論文から引用し、草創期の部分は旧三栄測器の先輩方(斎間重男氏、江松正彬氏、菊川武明氏、瀧口裕行氏、竹内義雄氏)のお話と河田芳巳氏の自叙伝を参考にしました。
また、貴重な資料や写真は末永和栄氏、土屋和彦氏、石井昭浩氏、岡田保紀氏、柳原一照氏から提供いただきました。
紙面を借りて感謝申しあげます。
- ■ R.Coorer 他(石崎他訳) EEG テクノロジー 星和書店 1984年
- ■ 石山 陽事 脳波と夢 コロナ社 1994年
- ■ 河田 芳巳 私の歩んだ道 2001年
- ■ 久保田 博南 電気システムとしての人体 講談社 2001年
- ■ 下田 又季雄 第11回脳波・筋電図技術講習会テキスト 1974年
- ■ 白澤 厚 臨床検査のデジタル化 Medical Technology Vol.22 No.13 医歯薬出版1994年
- ■ テクニシャン9号 北日本脳波検査技術者会 1970年
- ■ 時実 利彦 脳の話 岩波新書 1996年
- ■ 福沢 等 脳波計の進歩 臨床検査 Vol25 No11 1981年
- ■ 日本光電(株) 電子技術で病魔に挑戦 (日本光電50年の歩み) 2003年
- ■ 日本電気三栄(株) 脳波ポケット知識 1992年
- ■ 日本電気三栄(株) 40周年記念社史 1988年
- ■ 島薗 安雄・喜多村 孝一・大友英一編 脳波アトラス1巻 文光堂 1977年
- ■ 勝木 保次 他監修 脳のはたらき 共立出版 1966年
- ■ 清水 健太郎・秋元 波留夫・時実 利彦・藤森 聞一 脳波入門 南山堂 1962年
- ■ ロバートガランボス(菊池/南谷訳) 神経と筋肉 河出書房新社 1972年
- ■ 柳原 一照 デジタル脳波計の基礎 日本臨床神経生理学会技術講習会テキスト2002年
- ■ 鎗田 勝 設計者の見た最近の脳波計 日本脳波筋電図技術講習会テキスト 1985年
- ■ C.George Boeree Modern Medicine and Physiology www.ship.edu
- ■ Hans Strauss他著 Diagnostic Electroencephalography Grune&Stratton社 1952年
- ■ GRASS TELEFACTOR Company History www.grass-telefactor.com
- ■ Key Events in Neuroscience www.fu-berlin.de/biopsych/schlaf/keyevents.html
■このWebセミナーの内容は会誌「医用機器」に掲載されています。
白澤 厚「医療機器のあゆみ 第五回 脳波計」医用機器Vol.31 No.343 13-21p 日本医療機器工業会 2005年
リンク :日本医療機器工業会